2011年4月17日日曜日

「ゆとり教育」の目指したもの

「ゆとり教育」という言葉が「学力低下の原因」という感じで、ここ10年くらい叩かれに叩かれました。
その結果、文科省も方針を転換し、教科書の内容を増強、学習内容も大幅に増加し、今年度からは小学校の教科書もかなり厚みを増しています。


ところで、1990年代から導入されたきた(それ以前のカリキュラムからという評価もありますが)ゆとり教育の本来の目的は何だったんでしょう?

当初は「過度の詰め込み教育を見直し、総合学習などを通じて学問の有機的なつながりを作り経験的な学力を育てる」のが導入の目的でした。
学校では『総合学習の時間』というのを設置しましたが、これはこれで明確な到達目標が設定されていないため、指導も評価も非常にしづらいものでした。
もちろんこの時間を効果的に使えている学校もあるにはありますが、どちらかというと通常授業の補習に使われたりしたわけです。
そもそも、基礎学力自体が身についていない状態で、科目横断的な総合学習の指導が実を結ぶこと自体、非常に難しいですし。

また、一方で、土曜日の通学を無くすことで<その時間は家庭や地域などで課外活動・総合学習的な活動に使ってもらおう>とも言われていたんですね。
でも「学校が休みだから今日は水族館、来週は博物館、その次は山登りに行ってこよう」なんて、毎週毎週学習的なことをできている家庭、どれだけ有るんでしょうね?

そんな感じで、大きな目標はあったものの、目標に対しての達成手段に欠けたために骨抜きになり、「学ぶためのゆとり」が「時間を持て余したただのダラケ」に大きく傾いてしまっていたのが批判されているゆえんです。

でも、「過度の詰め込み教育を見直し、経験的な学力を育てる」というこの考え方自体は決して悪くはないと思うんですよね。

例えば、以前勤めていた札幌聖心女子学院では、総合学習の時間として中学・高校を通じ図書館とインターネットを利用した調べ学習を徹底して指導していました
図書館で好きな本を探すところから始め、 テーマに合わせて文献を調べ、それをまとめ、さらに深め、プレゼンテーションにして一人一人に発表させるということを全ての生徒に対してしています。
もちろん、それをやり切るには非常に高い能力が要求され、きっちりやりきれる生徒と苦戦してボロボロになる生徒はいるわけですが、その作業の中で辞書をひくことや得た情報の整理の仕方、ノートへのまとめ方や人への伝達の仕方など、実は後々社会で要求される<自分の力で学び取るスキル>を少しずつ身につけていくわけです。


「わからなかったらノートを見ろ」「あとから見てわからないようなノートを作るな」とは、私個人が札幌聖心に勤める前から生徒には言い続けてきたことなんですが、それを授業として一から指導できる学校は少ないと思います。
しかし、それこそがゆとり教育の目指したもののうちの一つではなかったかとも思います。
そういったきちんと目標を定めてそれに対する教育を開発していた学校も少なからず有ったということは、ほとんど報じられることはありませんが、もう少し評価されてもいいと思うのです。

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