2011年5月31日火曜日

1週間前の晩のおかずを思い出す方法

昨日も書いたとおり、基本的にはどんな人でも意識していないものは時間とともに忘れるものです。
でも試験では習ってからしばらく経ったものが出題される。
なので、「いかにして必要なときにすぐ思い出せるようにしておくか」が問題なわけです。

で、1週間前の晩のおかずを思い出す方法ですが、何のことはない、毎日のおかずの記録をつけておけばいいだけですよね。
ただ、そこに味の感覚までリアルに思い出したいなら日記のように味付けについての感想を書いておけばいいし、鮮明なイメージが欲しいなら携帯電話ででも写真に撮っておけばいい。
本来、授業でとるノートもそういう意味合いがあるはずです。

ところが実際に生徒の様子を見ると、ノートを書きっぱなしで後からそれを見返すということをほとんどしていない。
習慣として見返すことがないから、自分でどこに何を書いたかも把握していないし、書いたものを見ても自分で書いたはずのことに対しても「コレどういう意味ですか?」となる。
「(問題集を見て)センセー、コレわかんない」→「ノート調べてみ」→「こんなのやったことないから書いてないよ」→「(ノートをめくって見せて)じゃぁ、ココに書いてあるこれは?」なんてやりとりが頻繁に行われますからね。

大半の先生が「ノート提出」なんていうクダラナイ課題を課すことから考えても、学校ではノートをとらせる指導をかなり強力にしているはずです。
しかしその一方で「ノートをとることの意味や、とった後のノートの使い方」をまともに指導しているという話は聞いたことがありません。
なのでノートは「黒板通り書いておきさえすればいいもの」に成り下がってしまい、書き写すという作業の徒労感だけが生徒に残ります。
もちろん、何色ものペンを駆使してキレイなノート作りを楽しむ生徒もいるでしょう。
しかし、大切なのは見栄えがキレイなことではなく、後から見返したときに学んだことがリアルに再現できることのはずです。
そういう意味で、板書を書いているかどうかを形ばかり点検するようなクダラナイノート点検など早々にやめて、ノートをきちんと使えているか、使えるノートになっているかを評価すべきだと思うのです。
※実際、大学の推薦入試やAO入試なんかではノートテイキングテストなんてものもあるんですよ →参考

もう少し学校で「ノートを使うことの指導」ってのをしてくれませんかね?

2011年5月30日月曜日

「1週間前の晩のおかず、覚えていますか?」

私が生徒によくする質問です。
まぁ、その日が誰かの誕生日だったとか、クリスマスだったとか、そういった特別なことでもない限り晩のおかずなんざ1週間も覚えているものではないでしょう?
自分なら、、、正直、2日前だって怪しい。
そう、人間誰しも時間が経てば望もうと望まなかろうと自然とアレコレ忘れるものです。
逆に、なんでもかんでもPCのように完璧に記憶してしまい忘れられないという人がいたら、それはそれで苦痛なような気がします。

で、なんでこんな話を生徒にするかというと、
どれだけ熱心に授業を受けてどれだけキレイにノートをとっていたとしても、それだけでは時間とともにいとも簡単に忘れてしまうからです。
場合によっては、アレほど真剣に悩んでいたこと自体すら「そんな事習ったっけ?」というくらいキレイに忘れてしまっています。
そこで生徒は決まって「自分って物覚え悪い。頭良くなりたい。」というわけですが、、、そこがそもそも違います。
忘れることが当然であって、<忘れない努力>、もしくは<パッと思い出せる努力>をもっと真剣にすべきなんですよね。

では<忘れない努力>とは。
小学2年生で、3~4ヶ月の時間をかけてかけ算の九九を学びます。
その間、毎日のように学校でも家庭でも「はい今日は3の段いってみよ~」なんてことをするわけですが、その成果があってか、大抵の子供は2年生の終わり頃には九九の大半が身につきます。
それ以降、九九なんてわざわざ学び直さなくても、まぁ少しぐらいは突っかかるかもしれませんが、大半は言えるようになっているはずです。
つまり、時間をかけてくり返しくり返し覚えたことはそう簡単には抜けません。
このブログを読んでくださってる方、いくつぐらいの方なんでしょう、、、小学校の時の初恋の人の名前覚えてます?
自分、顔は思い出せませんが名前はなぜかまだちゃんと覚えてますよw
その後、転校だ何だで縁は全くなくなっていますが、それでも25年経っていても名前だけでも覚えているってのは、当時それだけ繰り返し頭に思い浮かべていた証拠なんででしょうね。

ただ、中学・高校となると学ぶべき内容も格段に増えていますから、そんなにそんなに一つのことに時間なんてかけてられないですね。
そうすると<完全に覚えてしまうこと>よりも<しかるべき時に正確に鮮明に思い出すこと>の方がより重要になります。

2011年5月24日火曜日

"常識"は変わっていくもの

「日本語が乱れている」とはよく言われるものですが、言語なんて文化活動のひとつの形だもの、流行り廃りは当然あるものだと思っています。

じゃなければ高校の古文はあんなに難しくなりません。
古文があんなに難解だと感じるのは、過去に日本語が変化してきた証拠ですもんね。
"ら"抜き言葉「食べられる →食べれる」ってのが"乱れ"の象徴として挙げられたりしますけど、大昔にだって「~て+あり。→たり。」なんて風に、言葉なんで時代と共に変わるもんです。
結局のところ、「こっちでもいいんじゃない?」というような流れと、それに対する同意が形成されるかどうかであって、お偉い方が「乱れてる」やら「日本語を守ろう」やらと言ったところでそんなものは吹き飛ばされてしまうんでしょう。

ただ、それが教育現場で起こると、その世代からはそれが常識で、旧世代の知識が非常識になってしまうため、途端に大きなジェネレーションギャプになってしまったりもします。

先日、中3生用に英語の不規則動詞を調べていたんですが、英語にも小さな変化があるようで。
確か自分が習ったときには「get(手に入れる)」の変化は「get-got-gotten」だったように思うんですが、今の教科書には「get-got-got(gotten)」となっていて、gottenは使わないようになっているんですね。
一方で、手元の辞書(2005年の版)を調べてみたら、それには「get-got-gotten,got」となっていて、gottenの方が先に来ていました。
いつ頃からなんでしょう? まだ過渡期なんでしょうかね?

そういえば、自分が習った頃は体内の小腸にある栄養を吸収するための組織を"柔突起・柔毛"と習っていましたが、今は"柔毛"しか載っていなかったりします。
似たような例で、当時は生物の"セイチョウ"には使い分けがあって、植物の方は"生長"、動物には"成長"を当てていたように覚えていますが、今はどちらも"成長"になっていますね。

こんな感じで、教科書をよく見てみると細かなところで教えるべき常識が微妙に変化していたりするんですよね。
なので、知っているつもり・覚えているつもりで教えていると、「実は自分が理解した当時とは常識が変わっている」なんてこともあったりするんです。
そういう意味でも、教科書・問題集を一通り眺めて問題を解いておくくらいの余裕が無いと、当時は「真実でも今は嘘」みたいなことを気付かずに言っているんじゃないかとたまに不安になることがあります。

2011年5月20日金曜日

指導カリキュラムをどう組むべきか

大手塾の場合、「この時期にはこの教材、この時期にはこの試験」という様な年間通した流れというのがある程度完成された状態で出来上がっているでしょう。
けど、うちの場合は、生徒さんに会って話を聞いてから、その生徒さんの目標や状況にあわせて「何から手をつけるべきか」から考えることになります。
学校に密着した指導を続けている塾であれば、学校の授業で何がどの程度指導されているのかも生徒からの話や定期試験の出題などから読めるのですが、現時点では情報が少なく手探り状態。
@willであれば講座受講の後で感想を聞きながら、数学であれば指導の中で理解の様子を探りながら、「どこまでが身についていて何が欠けているのか」、「どういう順番で補っていくのが良いのか」を考えるわけです。

現在、高校3年生の生徒さんが毎日遅い時間まで通って来てくれていますが、大学受験までの8ヶ月をどう使っていくべきか、非常に悩むところです。
学校や家庭学習でかなりの水準まで学習が進んでいて足場固めが完成されているのであれば遠慮無く入試レベルの演習に入れますが、そうでないのであれば、高度な内容をぶつけるのはかえって混乱を増すことになってかえって学習効率が落ちることになりかねません。
「この時期だからこのレベルで」という理想的なカリキュラムがたとえあったとしても、千差万別な生身の人間を迎える以上は「その人に合うか合わないか」が全てです。
いかにしてその生徒の力を正確に読み取り、課題を見つけ出し、それを乗り越える材料を提供できるか、そこに指導の質が問われるのだと思います。

その、生徒の実力や欠けているものを見抜き、それに合うカリキュラムを柔軟に創り上げるというのは非常に難しいのですが、でもそこで「この時期はコレで」と出来合いのものをぶつけるだけではないところに、うちの塾の一番の強みがあるように思います。


そんなわけで、来てくれている高3生の生徒さんには、大手塾のセオリーから行けば「3年生にそのレベルを?間に合うの?」と言われかねないものから始めてもらっていますが、本人も私もいたって大マジメ。
基礎と言われるココをキッチリこなすことで、必ず後半戦に猛ダッシュがかけられ、最終的には確実な点数につながると信じています。
あとは長丁場の途中で本人が疲れてしまって投げ出さないこと。
それを支えることも私の大切な仕事です。

2011年5月16日月曜日

なぜ理科を勉強するのか?

勉強しに来てくれている高校1年生が、ちょうど学校で周期表や原子核とかを学んでいるらしく、まぁその辺までなら覚えているのでと軽く説明をしていくと、
「なんでそんな見えもしない電子の移動とか考えないとダメなの?」という話に。

「そりゃ見えはしないが、でも静電気のパチっと来るのも電気が移動したからでしょ?」
「そうなの?」
「いや、、、ストローとティッシュを擦りつけてとか、中学2年で習っているはずだけど。。。」
「あぁ、離れていくとか引き寄せられるとか?」
「そうそうそれ。アレははじめは自分の中でプラス・マイナスのバランスが取れてた電気がどっちかに偏ったって話だったでしょ?」
「なんかやった気がするけど、わかんない。」

いや、こう書くとこの生徒が特別勉強していないように思われるかもしれないけれど、この生徒はストローの話を覚えていただけでもよく勉強している方。そうではなくて、コレがいわゆる普通の生徒の姿なんですね。
つまり、学校で習ったことや問題集で練習したことはあくまでも「学校で課せられる課題」や「試験で点を取る手段」でしか無くて、そこに対して<興味の拡がり>や<関連性を持った理解>というのがついて行っていない。
なので教科書の話は教科書の中で閉じており、現実世界の現象に結びつかない。

本来、理科という科目は身の回りの様々な現象に対して理性的に説明をつけようとしたところから発生したものだと思うのですが、なかなかそうは受け取られないようで。
「なぜ木は燃えると軽くなるのに鉄を燃やすと重くなるのか」や「なぜ呼吸をすると二酸化炭素が発生するのか」から始まり、果ては「放射性物質の拡散はなぜ危険なのか」や「ストロンチウムが体内に摂取されるとどういう事が起きるのか」まで、理科の世界は常に現実世界の現象を考察対象にしてきたはず。
特に高校くらいになると、きちんと学ぶと現実世界に起きているいろいろなことが結びついて説明がつくようになり面白くなってくる分野だと思うんですが、、、

せっかくこれだけ原子力発電所や放射性物質の危険性についての話題が毎日のぼっているのに、そこにほとんど触れることなく周期表だけ覚える授業って、どうなのかなと思ってしまうわけです。


ファラデーという人が150年前(!)に行った講演の記録が『ロウソクの科学 (角川文庫)』という本にまとまっています。
この方は電気分野で有名な科学者ですが、「ろうそくはなぜ明るく燃えるのか」ということを様々な実験を元にして素人の群衆に順序良く非常に分かりやすく説明していき、原子分子の考え方を導入し、最終的には・・・・・・・・・結論部分が秀逸なのでその辺は手にとって読んでいただくとして。
この講演の過程が理科教育のたどるべき道筋とその目標を非常に良く表している気がします。
お暇があったらぜひ目を通していただきたい本の1冊です。

価格は380円と、非常に安いです。
うちの塾にも置いておきますね。

2011年5月12日木曜日

英文は後ろから訳すもの?

またこりもせずに長文読解の話ですが、前にも書いたとおり、高校時代の自分の英語力といえば、もうなんというか、どうにもこうにもならないほど散々な感じでした。
が、駿台で長文読解の手法を習ってからは格段に読めるようになり、センター試験の点数も60点だか伸びたわけです。
そんな経験が自分にあるので、塾に来た生徒にはまずは英文の読み方の"考え方"(まどろっこしい表現だな、こりゃ)からレクチャーしていきます。

聞きかじりなのでアレですし、で、しかも大した話もできないのですが、
「とにかく英語は前から読んでいくもの。後ろからさかのぼって読むものではない」
まずは半年くらいの間、これを徹底して長文に向かってみてよっていうだけです。


当時の自分も含めて、長文を読めていない人の大半がおそらく「英語は後ろから訳していく」と思っているのではないかと。
でも、いつだったか誰かに言われたんですが、「ネイティブの人が、相手の言葉を聞いたときに後ろからさかのぼって意味を考えたりするかい?」

日本語で「これ、去年、うちの弟が買ってくれたぬいぐるみなの」と言われたら、聞き手である私たちの頭の中では「"これ"の話なのね」→「去年?なにしたの?」→「弟が買ってくれたんだ」→「あぁ、ぬいぐるみの話か」と、瞬時にですが前から順番に理解していきます。
誰もコレを<後ろから考える>なんてことはしませんよね?

ところが「This is the doll which my brother gave me last year.」 となった途端に<後ろから訳す>なんてことをしてしまいます。
おそらくネイティブの人の頭の中は「Thisの話題ね。」→「あぁ、doll だよね。でそれが?」→「whichってことは詳しく説明してくれるのね」→「あぁ弟が買ってくれたのね。いつ?」→「なるほど去年か。」 的な解釈をしているのであって、いちいち話題をさかのぼって理解なんていていたら初めの方の話なんて忘れてしまいます。

つまり、話の結論(述語動詞)が現れるタイミングが日本語と英語で違っていて、順々に説明を加えながら最後に結論を話すか、先に結論を言ってから内容を補足して詳しくしていくか、という違いなんですよね。
このことに気づくと「前の方から次の展開を予測しながら読む」ということができるようになります。
そこで、「長文を読むときには、徹底して前から読んでいく。うまい日本語訳を作るのは別の作業」ということを話し、高校入試程度の簡単な文章でその練習を少しずつしつこくしていきます。

自分自身、英語自体は得意ではないですし、教えられるほど文法知識も備わっていないので、伝えられるのはほんのかじる程度だけであとは@willと参考書で頑張ってもらうしかないのですが、まぁそれでも学校でしか習ったことのない人にとっては新鮮な話なようです。



にしても、専門は数学のはずなんですが、なぜかココでのネタにするのは英語の方ばかりですね。。。
数学にも言いたいことは山ほどあるんですが、なにせ数学は数式も図も書きづらいのですよ、HTMLでは。

2011年5月10日火曜日

「本気でやれば・・・」

「やればできる」とはよく言いますし、定期試験後になって「次は本気出す」ともよく聞きます。
が、それでホントに次の機会にその"本気"を出せて成果を上げられた生徒をあまり見たことがありません。

「本気でやる」「頑張る」という心構えはそれはそれで大切なんですが、何事も心構えだけではどうしようもないですよね。
問題は「どうやるのか」という方法論の方です。
ところがそこを考えずに「次は頑張る」という生徒が教員としてクラスの生徒と面談をしていたときには非常に多かった。
「おぅ、それじゃぁ頑張れよ」と言ってオシマイにするのは簡単なんですが、いちいち辛辣な私としては「で、なにをどう頑張るの?」と聞かざるを得ません。
口ごもりながらも一つ二つ自分で考えられればまぁいい方ですが、「試験前ちゃんと勉強する」「ノートをよく見る」程度では「そんなの当たり前だ。それすらやってなかったの?」という話です。

で、問題は、その生徒が<本気の出し方>や<頑張り方>というのをそもそもわかってるのか?ということです。
「復習する」ということを「ノートをぱらぱら見ること」だと思っている生徒がいます。でもホントにそれだけでやったことをリアルに思い出して試験に繋げられるんでしょうか?
「単語を覚える」ということを「単語帳をめくってみること」だと思っている生徒がいます。でもホントにそれだけで語法の注意点まで頭に入るんでしょうか?


<頑張り方>というのは人それぞれで、どれだけ優秀な人からアドバイスを貰ったとしても、それがシックリはまってうまくいく方法もあれば、あまり合わない方法もあります。
なので、とにかくまずは自分で試してみることがなにより先で、それがなければ頑張りようもないのです。
そこの辺りを考えもせずに「次は頑張る」という生徒に対しては、「だったら今から頑張る練習しとけ」と言うわけです。

本気を出すことや頑張ることにも長い期間の練習が必要で、そこがあって初めて本番前で<本気を出し>、<頑張りきれ>、<成果を出すことができる>ようになるのです。
自分の生徒には、その辺りをうまく伝えられ、日頃から頑張り方を身につけさせることができたらと思って指導しています。

2011年5月9日月曜日

参考書選びの難しさ

最近は、本屋に行くとほぼ必ず参考書コーナーで塾に置くものを選ぶためにアレコレ開いてみるのですが、参考書・問題集ってのは本当に選ぶのが難しいですね。(予算の都合上、実際に買うのはAmazonやオークションの古本ですが・・・)
参考書の場合、自分の学習がどの程度まで進んでいるのかで適切なものというのが変わってしまいますし、癖のある解説だと合う合わないも出てくる。
問題集にしても、数をこなすような練習用のものが欲しいのか、1問をじっくり解くようなものが欲しいのかによっても、選択が全然違ってきます。

ところが、本屋に行ってみると、文芸書・ビジネス書・小説さらには絵本のコーナーにもあちらこちらに「今売れてます!」「○○な人に!」「あの○○の新作!」という書店からのオススメPOPが付き手に取りやすくなっているのに、参考書・問題集のコーナーでそういうのを見たこと、、、ありますっけ?
ある程度よく出るものは平積みにされていたりはしますが、かといってそれらが手にとったその人にとってイイ物かどうかはまた別な話。
というか、少なくとも私が開いてみて「これはイイ、今欲しい」と思った事自体がむしろ稀だったような。。。
それで今度は手に取りやすそうな「わかりやすい○○」とか「1週間で完成!」とか「現役東大生が~」とかを開いてみたりするわけですが、そういう派手な煽りのついた問題集も、開いてみると中身スカスカだったりもしますしね。。。
そんなわけで、休みの日にそのコーナーへ行くと、必ずっていいほど何を買ったらよいのかわからず、書棚の前で右往左往している学生さんに出会います。

自分の生徒に対しては
 「基本の確認用なのか受験に向けてなのか、買う目的を明確にしておく」
 「問題集は必ず解答・解説を読んで理解できるものを選ぶ」
   (本当は少し理解出来ないくらいの方が頑張ったとき力になるんだけど)
 「同じテーマのページを開いて比較してみる」
    (例えば『2次関数の最大最小』、『関係詞』、『敬語』など、そこそこ難しいところ)
など、まぁいくつかアドバイスをしたりしますが、それでもやっぱり「自分にはこれが欠けているからこの本」なんてのをピンポイントで見つけるのは非常に難しい。
そもそも「今の自分にどんなものが欠けてて何をすべきか」を正確に見抜くこと自体が至難の業ですし。


というわけで、参考書選びの手伝いをすべく、シグマゼミの本棚には「うちでの授業に合わせるなら、まずはコレから」というのを選んで設置しています。
例えば、
 @will『英語長文読解へのアプローチ』に合わせて
   →『英語総合問題演習英文和訳演習(駿台)

 @will『ゼロからはじめる古文』に合わせて
   →『古文解釈はじめの一歩(駿台)

 私の数学授業に合わせて
   →『大学入試基礎力判定問題集(学研)』 『チェック&リピート(Z会)

というような感じです。

現段階で取り揃えているこれらは、"今来ている生徒さん"の"今の力"に合わせて買っていっているので、当然ながら大学受験を意識していても<入門用>が中心。
今後の生徒さんの学習の進度に合わせて、より高いレベルのものを買い足していくことになるでしょう。
なので、いずれ「これじゃちょっと物足りないから、次はこんなの探してください」と言われるのが、楽しみの一つだったりします。

2011年5月8日日曜日

PCでできるペンシルパズル 『PICMA』

週末なので息抜きを。
『イラストロジック』とか『ピクロス』なんて名前で呼ばれたりもするヤツです。

Picma
http://kaetheryan-chronicles.com/picma

英語圏のサイトなので「遊び方(How to play)」や「コツ(Tips)」なんかもすべて英語で書かれていますが、、、その辺は頑張って読んでいただくとして。


しょうもない話ですが、
よく中学生あたりに「なんで英語なんて勉強しなければだめなの?」と聞かれた場合、模範解答的には「世界中の人とコミュニケーションを取るため」というのでしょう。
が、自分にとっては「海外のゲームをするため」くらいだったりします。
実際のところ、大学卒業後、インターネットの普及で海外物のゲームで遊ぶことが増えたので英語に触れる機会は非常に多いんですが、でも英語で人と喋る機会はと言えば、、、この10年で1回あったかな?

あ、でも、ゲーム中にチャットができるものの場合、いきなりあちらから英語で話しかけてきたりしますんで、やっぱりコミュニケーション手段として、ある程度は英語で会話できると、より世界が拡がって楽しめるというのは間違いないですね。

自分がそんなことに気づいたのは、インターネットを使い始めてから。
インターネットの普及自体が1997年辺りからですから、、、中学高校で「ネットで遊びたいから英語をしっかり勉強しよう!」と思うには、ちょっとネットの普及の方が遅かったんですよね。
あと5年早かったら、学校でもうちょっと真剣に英語を学んでいたのかもしれません。

2011年5月6日金曜日

シグマゼミへのバス路線

というわけで、先日、お問い合わせの電話でバス路線について聞かれたのですが、今ひとつ良い返事ができなかったことが連休中も気になっていました。
シグマゼミのサイトの方にまとめておきましたのでご確認下さい。
 →シグマゼミへのバスでのアクセス 路線図および時刻表

新川営業所が近いためか、バスを利用すると意外といろいろな方面から通うことができるようです。

小さなサービスの大切さ

連休を利用して実家に帰ってきました。
自分で塾を開いてからは初めての遠出でして、今まではさほど気にしなかった小さなことが何かと気になりました。

移動中に立ち寄った某道の駅は、観光時期には大型バスも頻繁に立ち寄り、駐車場も常に混んでいるという有名な休憩場所です。
寄った日も大した混雑で、駐車場は満車状態。
で、その駐車場には誘導員(?)が2人いて互いに無線を持っているらしいのに、一切空き場所の誘導をしないでひたすらブラブラしているだけ。
結局入口のところで車が詰まって、入場するのにもしばらく待ったのですが、誘導員って「あっちに空きありますよ~」っていうのを教えて車の流れを良くするために配置しているのでは?

実家の街の駅前は、ここ数年で人の流れが変わってしまい、すっかりさびれてしまっているのですが、大きなデパートが2軒向かい合わせで並んでいます。
1軒は昔から変わらず埋まっているんですが、もう1軒はすっかりテナントも離れてしまっており3・4階がフロア丸ごと閉鎖になっているという状態。
ところがその5階に、なかなか良い子供向けのスペースが出来たというので行ってみたわけです。
が、なんとなく薄暗いデパートに入りエスカレーターに乗ると2階でストップ。
「3・4階閉鎖中のためエレベーターをご利用下さい」とのこと。
で、そのエレベーターはといえば小型のものが1機しかない。
そして帰りは、7階にそこそこ人の入っている店があるためか、5階から乗ろうとしても「満員のため通過」ということが起きる。
このスペース自体はとても面白くまた利用したいと思うものだったんですが、商業施設の形としてはどうなんでしょう?
「エスカレーターを運転して、空きスペースの階はパネルとか置いておけばいいのに」 とは嫁さんの発想。
たしかに、5階に行くまでの間に市内の小学生の絵とかを貼っておくだけでもぜんぜん印象は違うでしょうね。

もう一方のデパートの方は1階・地階を通過しただけなのですが、こちらも人出は薄く、数えられる程度のお客さん。
ところが出口のすぐ横(同じ建物内)の某有名ハンバーガーショップだけは、15時だというのにその入り口から外に並ぶまで客があふれている状態。
なのにデパート側にはその店に入る入り口はなく、待つ人は外にいないといけないんですよね。
天気のいい日であればまだ待てるでしょうが、悪天候の日はわざわざ外で待ってくれるでしょうか?
そこでわざわざ人の少ないデパートの化粧品売り場に入っていきますかね?
逆に、もしデパート側にスペースがあったら、待っている間に店内を見回す人がいたりしてもおかしくないと思うんですが。

もちろんそれぞれの件について、意図しているところはあるんだとは思います。
デパートにしたってエスカレーター動かすのに経費がかかるでしょうし、飲食店の匂いとかをデパートに入れたくないのかもしれないですし。
誘導員さんにしても、たまたまうちらが行ったその時だけ上手くいってなかったのかもしれません。
でも、通り過ぎのお客さんがそのちょっとした所に不満を感じ、「こんなところならもう来ない」ということが複数重なってしまうとその地区そのものの印象が悪くなると思うんですよね。
特に実家の街は道内では有数の観光都市として知られている場所。
街の窓口に当たる駅前のサービス力の低下は街全体の印象を左右しかねません。

「〇〇無料!」のような大きなサービスは、単発で終わってしまうので期待はしません。
そうではなく、たまたま寄ってみた人がちょっとでも気分良く帰れるような小さなサービスの方がより大切だと思います。
自分で塾を開き、お客さんをひとりで迎える立場になって、そういう小さなところに気を配れる様になりたいという自戒を込めて。

2011年5月2日月曜日

そんなに急いで、、、

複数の学校で勤務した上で、塾で高校生を見ているのでより一層思うことなんですが、
数学の授業、そんなにハイペースに進めてどうしようっていうんですかね。。。

前にも書きましたが、数学にはどうしても教科書以上に解説を加えなければならないところがいくつかあります。
高校1年生の初めの方で言うと『絶対値』や無理数の計算の中で現れる『対称式』がそれに当たります。
そこは式変形に至る考え方がのちのちまで重要になる箇所なので、式だけ見たり公式だけ覚えても何の役にも立たない、時間をかけてでも一度きちんと理解をする必要があるところです。
なので、自分が授業をする際にはそれぞれの説明に1時間はどうしても費やしますし、課外講習なんかを組む場合にもまずはここを抑えようとします。

が、その重要ポイントを15分くらいで通過するような授業もあるようで。。。


塾に勤めるようになって市内近郊のいろいろな学校(札幌南・北をはじめ、北嶺・大谷・光星・立命・日大などなど)の生徒から授業の様子を聞くわけですが、「ジックリ丁寧に解説を加える」というタイプの授業を受けているという話はまず聞いたことがありません。
とにかく早く先へ行き、テスト前になってからひたすら演習を繰り返すという授業が多いようです。
ある学校では定期試験前にその模擬テストを3・4回繰り返して手の内を明かしてから試験をするところも。
定期試験で点を取らなければならない生徒にとっては、短期的にはそれでもいいのかもしれませんが、でも、ひとつひとつをきちんと理解せずに進んで、試験前に形だけ問題を解けるようになって、その後はどうするんでしょう?
「解き方は知ってる」というだけでは、汎用性はありませんから、ちょっと問題の形を変えただけで手に負えなくなるのは眼に見えています。
結局、付け焼刃で覚えたものはその後あっという間に記憶に残ることは無く消えていってしまい、模擬試験なんかではなんの役にも立たないことの方が多いんですよね。


私立の中学なんかは特に顕著で、ほとんどの私立中が公立中の3年分を2年生までで終了し、高1内容を中3から指導し始めます。
ところが、たとえ中学入試をくぐってきたとは言えども、どこの私立中もそもそもの入試倍率が低い状況ですから、そんなにそんなに学習力の高い生徒ばかりが集まるわけではありません。
むしろその1.5倍速の授業に対応してきちんとついて行ける生徒というのは一握りしかいないと言っても間違いではありません。

本来、1.5倍速で授業をするメリットは「高2までで高3分を終了し最後の1年を大学入試演習に」というところにあるのですが、結局はハイペースで飛ばしてきた内容の復習と穴埋めでそのメリットは食いつぶされるわけです。
もちろん、出来る生徒も中には居ます。ですが、「学年の上位1割だけに照準を当てる学校教育ってどうなのさ?」という話です。

定期試験前の問題演習の時間を<生徒のため>と思っている先生が多いようですが、本当に生徒のためを思うなら、もうちょっと時間配分を考えて、どの生徒もつまづくところくらいはきちんと見抜いてしっかりと指導してもらいたいもんです。


というわけで。
「うちの学校、進むの早すぎてもう無理!」と思っている方はお早めにご相談ください。
生徒数の少ない今なら、なんぼでも個別に見られ、穴埋めが可能です。

2011年5月1日日曜日

@will オススメ講座 『英語長文読解へのアプローチ』

前に書いたとおり、高校以降の英語は「文構造が正確に読み取れるかどうか」というところにひとつの焦点があります。

もちろん文法・語法的に新しい知識を補充していくことも重要ですが、それと並行し英文の構造に気を払っておくことも重要になってくるわけです。 

中学校的な「英単語をそのまま日本語に置き換えて意味を考える」ではどうしても限界が来るわけですね。

そこで、<英語の長文を正確に読み取る>というテーマに絞って、系統的に英文を読む練習が必要になります。
先に紹介している参考書を元に独学で進めていってもいいわけですが、 知らないものを1から自力で本から読み取って身につけていくというのは、なかなか難しいものがあります。
かといって、八反田の大雑把な説明では中学から高校1年程度の初学者には間に合うとは言え、これから大学受験へ向かっていこうとする高校生には不十分でしょう。
というわけで、その辺りを@willの講座に探してみましょう。


今回のオススメは『英語長文読解へのアプローチ』 です。
全25回の短期講座ですが、講座は「すぐに辞書を引くな」からスタートします。
「辞書は引いて第1義を読むだけでは不十分、きちんと品詞や語法まで読むこと」という、ともするとアタリマエのところから講義は始まります。
そして「主語と動詞を探す」「andやbutの役割」と続きますから、まぁ、英文を読む上での基本事項の確認とも言えます。
ですが、まぁ少なくとも自分は高校当時これが出来ていなくて苦労したわけですから、自分同様に迷路をさまよっている方も現役高校生には少なくはないはず。そういった「学校で習う英語はなんとなく出来てはいるけど、模試になると全然文章が読めない」という方にぜひ受講していただきたい講座です。

もっとも、短期講座だけに概論的な部分が強く、個人的にはもうちょっと文構造をしつこくつついてもらった方が効果的かとは思いましたが、、、その辺はまた別な講座を探すとしましょう。


前回紹介した『ゼロからはじめる古文』同様、本格的に英語長文を読み始めるその前に、心構え的に受講していただくと効果的かと思います。


~~~~~~~~~
講座名:『英語長文読解へのアプローチ』   講師:宮崎裕史 全25回
  辞書を読むための基礎知識→SVの把握→英文構造の特徴→読解演習→問題への考え方


@willはシグマゼミで無料体験が可能です。
各講座の詳細なども差し上げられますので、ぜひ一度792-0490までお問い合わせ下さい。

英語の学習についての反省

その後がその後なので自慢にもなりませんが、中学時代、英語はそれほど不得意という感じでもなく、中3では先生の推薦で英語のスピーチ大会に出場したくらいでした。
ところが、高校に入ってどんどん英文が読めなくなり、高2の学年には留年を賭けて英語の追試を受けるという始末。
なんで2年間でこうも出来が変わってしまったんでしょう?

その解答が明確になったのは浪人をして駿台予備校に通い『英語構文』と授業を受けた時です。
確か斎藤寛という東京から出向されている先生でしたが、この授業ではとにかく「英語は前から読むものだ」ということを叩き込むというか染みつけるというか、そういう授業でした。
曰く
「文中には必ずSVが1セットあるからそれを探す」
「動詞が2つ以上出てきたら接続詞や関係代名詞の存在を確認する」
「thatにはいろいろな働きがあるから、thatが出てきたらその後に完全な文があるか確認する」
「前置詞は後に名詞を伴って・・・」
うんぬんかんぬん。

要は動詞の存在を頼りにして文の構造・修飾関係を正確に捉えるという授業なんですね。


それまでの自分の英語学習といえば、文法はある程度頭に入ってはいたものの、文を読むときには「単語の意味を調べる→意味を当てはめる→なんとなく日本語にする」という極めて稚拙なものでしたから、文の構造に気をつけて読むなんてことは全くしてこなかった。
だからひとつの単語に複数の用法や意味があってもそこを見分ける術がなく、なんとなく日本語で当てはまるものを選んでいた。
で、それで通用するのは文構造が単純な中学校英語までだったというわけです。

ところがその授業では、まず単語の訳は置いておいて、「それぞれの単語がその文中でどういう働きをしているか」から考え始める。
英文構造のルールに則り、推理小説を読むかのように手がかりを探し、パズルを解くかのように構造を見抜いていく。
これが英文を読む際のアタリマエの習慣として身に染み込むまでにはしばらく時間がかかるんですが、それでも一旦慣れてしまうとものすごく力を発揮しました。

そんなわけで、自分の失敗をたどらないようにしてもらうため、生徒にはなるべく早い段階で、カンではなく理論に則った英文の読み方を身につけて欲しいと思って指導しています。

※駿台の英語指導法に興味を持たれた方は、こちらの本をご覧ください。
英文解釈教室   英文和訳演習  (どちらも伊藤和夫)
なお、どちらの本もシグマゼミの書棚にそろえてあります。

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